ちい。の日常

「人生に同じ1日は二度とない」 何でもない尊いわたしの日常、心が動いた瞬間を書きとめておこうとおもいます。

大切なことがみえた瞬間

今日のきづき。

それは、気遣いの感覚が似ている人との居心地が良いということ。

さっき少しイラッとした事があった。

このイライラの感情には、私に何かを伝えようとしてくれてる大きな意味があって、そこに向き合うために、今の感情を大切に保管したく、掘り下げて考えてみた。

私は通勤の際、自転車を使用している。

歩道を走っていると、ベルを鳴らすことが何度かある。

みんな、「通ります、避けて下さい」の意味を込めて、ベルを鳴らすと思う。

けどその他、歩行者が元々道の端を歩いてくれて、危なくない状況下でも、急に真横を自転車が通過したら驚くと思うので、「失礼します、通ります」の意味を込めて、私はベルを鳴らすようにしている。

それは、私が歩行者側の立場であった時に、驚いた経験があるから。

鳴らしてくれると有り難いなと思って、私も鳴らすようになった。

これは私の中では、相手に対する気遣いだ。

この前、気遣いの意味を込めていつも通り鳴らしたら、歩いていたおじさんに大きな舌打ちされた。

おじさんは、道のど真ん中を歩いていて、道幅は広めではあったけれど、もし私が通過の際ふらついたら、ぶつかるくらいの距離感だった。

だから、鳴らした。

相手には、そこまで私が考えていた事は伝わるわけない、それは分かってる。

けど私の感覚からすれば、少し考えれば相手からの気遣いだと気がつくことで、嬉しい気持ちになる瞬間なのだ。

でもおじさんはその瞬間、きっと私と真逆の感情を抱いたんだ思う。

お互いに言葉は交していないけれど、舌打ちに変換されてしまったってことは、そういうことだろう。

気遣いって、相手のことを想う行為で、無意識のうちに頭の中で【イイコト】と変換していた。

けど、有難いと想う感情がでるところ、リスク管理の度合い、など人それぞれのはず。

見知らぬもの同士、同じ感覚を持ってるはずがないのに、同じ感覚を無意識のうちに求めていた。

だから私はイラッとしてしまった。

本当に相手は相手、自分は自分、だと思って、何も期待しなければ、きっとスルーできた状況だった。

長年の経験から私自身に宿ってしまった、無意識のうちに相手に自分を求める行為、これは少しずつ手放していきたい。

ちゃんと意識すれば、少しずつ手放していけそうだから。

でも、こういう気遣いの感覚が似てる者同士であれば、毎日ストレスフリーに過ごせる気がするとも感じた。

ここは私の中ではとても大切なポイントで、この感覚の相性が良いと、他の感覚も似ているような気がしてしまう。

私はどんな人といると、居心地がいいなと感じ、幸せな気持ちになれるか、気がつけた機会になった。

機会をくれたおじさんに感謝。

ありがとうございました。

ちい。