ちい。の日常

「人生に同じ1日は二度とない」 何でもない尊いわたしの日常、心が動いた瞬間を書きとめておこうとおもいます。

無価値感からの脱却

今日、私は自分の価値に気がついた。

 

20数年間、本気で無価値だと思っていた。

 

何か成し遂げても、そんな人この世にいくらでも居るよ、なんて卑屈になってた。

 

特別じゃないよ、ってね。

 

何か他の価値をつけなければ、つけなければって、焦って、空回りして。

 

無価値って言われ続けてきたし、自分でも唱えてきたから。

 

でも本当はそんなふうにおもいたくなかった、諦めたくなかった。

 

そんなある日の今日、ついに発見したのだ。

 

その私の価値とは、他人に不快感や恐怖感を与えづらい存在なのではないかということ。

 

もちろん、世の中には色んな人がいて、感じ方や、捉え方が巨万とあることなど、百も承知である。

 

八方美人なわけでも、皆に好かれたいとも、おもっていない。

 

それでも、そうおもった。

 

そのきっかけは、今日コンビニでおこった恐怖体験である。

 

頭の中で状況は何度も鮮明にフラッシュバックするものの、詳細は伏せておく。

 

例えるならば、知的障害者から痴漢を受けた、みたいな感じ。

 

まともに立ち向かえば、話は通じず、殺されかねない。

 

瞬時にそう判断した。

 

なので結果は、泣き寝入りする形で幕を閉じた。

 

一時的にメンタルがボロボロ崩れ落ち、体も声も震え、涙がでた。

 

今も文字を打つ手が、若干震えている。

 

よくよく考えても、ないに越したことはないこの体験を、消化不良にならぬよう、どう消化すべきか、一日中考えていた。

 

これ程に心を揺さぶる体験は、なかなかない。

 

神様は、私に何を伝えたいのだろうかと。

 

昨日から精神面は安定し、やっと悪い流れを断ち切れた矢先の出来事。

 

もう、何かのメッセージとしかおもえないよね?

 

そして結果、マヂでメッセージだった。

 

ずっと悩み続けてきた、私の存在価値ってなんだろうの答え。

 

えーーーーーーーーーーここで答えくれるの!?ってかんじだった。

 

他人に不快感や恐怖感を与えづらい存在。

 

それはイコール、他人に安心安全を提供できていることなのではないだろうか。

 

安心安全って、幸せを感じながら生きる為に大切な基盤だ。

 

大きな価値だ。

 

私には、安心安全の帰りたくなる居場所があるから、今の私の状態は存在する。

 

もしそこが、銃声が鳴り響くようなスラム街だったら、どうだろう。

 

今日も無事に生きられるだろうかと不安でいっぱいで、きっとそこに帰りたいとおもう人は、中々いないはずだ。

 

きっとトラウマになる。

 

だからこそ、誰かに安心安全を提供できていることって、価値だ。

 

これを価値として捉える私のような人間は、過去に苦い思い出がある人なのかもしれない。

 

これを当たり前のようにでき、価値に気がついてない人は、今まで沢山美しいものを見てこれた人なのかもしれない。

 

育ちの良さも関係してそうだ。

 

それはもう、そんな存在は、ただただ美しいよね。

 

そして、改めて、身内に感謝だ。

 

身内には、不快感や恐怖感を与えてくる存在はいない。

 

職場には特別な関係の仲の人はいないけど、だからといって害を与えてくる人もいない。

 

これこそ、大きな価値だったんだね。

 

やっと気がついたよ。

 

今日は最悪のようで、最高な出会いをしたようだ。

 

気づきや学びには、いつだって不遇や逆境が隣り合わせ。

 

だからこそ、あの痴漢野郎に感謝する。

 

でも一生顔も見たくないけどね。

 

おわり。

 

ちい。

 

結局、愛してる

両親とは、目のつけ所、もののみえかた、整理のしかた、伝えかた、受けとめかた、そりゃもう何もかも違う。


何もかも違うからこそ、沢山ぶつかり、悩む。


本当に何故だか分からないほど、毎日のようにぶつかるのだ。


私は、平日は仕事をしているから、関わる物理的な時間は少ないはずなのに。


ぶつかる度に、両親のことも、自分のことも、もちろんおもいっきり嫌になるし、頭も心も痛くて、痛くて仕方なくなる。

 

殴ってもいいなら、殴りたいよ。


ボクシングは、人を殴ることを許容されたリングの上であれば、殴ってなんぼなんだよな。


実際に殴ることで、自然と解消されていることってありそうだなと、少し羨ましかったりもする。

 

そんな私は、しっかりとダメージを喰らって、体がふらついたり、パニックをも引き起こすことがあるんだ。

 

私が伝えたい一番のポイントだけでいいから、両親に伝わるように、現時点での精一杯で伝えたつもりが、何一つ伝わってないなと感じた時。


そして、誤解されたくない方向に解釈され、話が脱線し、収拾がつかなくなった時。


少しだけでも分かり合いたかったと願い、もうどうすることもできないのかと諦める、あの瞬間。


現実と切望の乖離に、パニックの症状は巻き起こる。


両親に対して、愛されたい、分かって欲しいという強い執着心があり、それを断てないことが、問題だろう。

 

それさえ断てれば、どれだけ軽くなるだろうか。

 

もう懲り懲りだよって。


もう二度と関わりたくないって。

 

そうやって、毎度強く思うのに、私ってずっと同じことを繰り返す。


両親から逃げたい。

 

そう思ってるはずじゃん。

 

でも私には、逃げない明確な理由があるんだ。

 

両親を、自分なんかよりずっとずっと愛してるから。

 

どんなことをされようが、言われようが、そんなことは関係ない。


私が、ふたりを、心から大好きなのだ。

 

勝手に大好きなのだ。

 

今まで守ってきてもらったぶん、守りたいのだ。

 

昨日も今日もぶつかったのに、こうやって日記を書いていると、いつの間にかこの結論にたどり着く。

 

でも書かずに、そのモヤモヤをネグレストしたら、どこかで違う結論にたどり着きそうで恐ろしい。

 

今、愛してるって本心で思えてる。

 

まだ私ちゃんと人間だ。

 

よかった。

 

ちい。



依存の分散

自然体でいられない要素の一つとして考えられるのは、

強い依存心だと思う。

 

依存してはいけないということではなく、

依存場所が一つしかないと、私は苦しくなる。

 

抜けられない程、何か一つに依存していると俯瞰的に感じた時は、

外ではなく、内に目を向けて、向き合う時間が必要だと思う。

 

まずは自分自身を満たしてあげる。

 

満ちる為に必要な事、やりたくない事を詳細に沢山書き出し、

小さなことを一つひとつ叶えていく事って大切だなぁと。

 

日常的にやっていると、なんとなく運が良くなっていく実感がある。

 

特に、人との繋がりで感じる。

 

私は、アクティブさやフットワークの軽さがない。

 

去年一年間、仕事関係の人以外で、プライベート誰かと会ったかなぁ。

 

リアルの場に行ったっけ。

 

何か特に意識している訳ではなく、現状に満足しているだけだ。

 

そんな私でも、ある時ふとした瞬間に、出逢う。

 

心から出逢えて良かった、と思える人に。

 

全身が温かくなり、ホッカイロみたいにポカポカしてくる感覚に陥る。

 

普段は逢えなくても、そんな存在がこの世に生きてくれているだけで、

自分が強くなったような、そんな気にさせてくれる人。

 

私の中には大切な人が増えていく。

 

たとえ、その人がこの世からいなくなってしまっても、

私の心の中では生き続けているから、更新されてはいかない。

 

皆に依存してるんだけど、分散しているから、距離はある。

 

けどそんなんでいい。

 

逢わなくても、逢えなくても、関係性など結ばなくても、

どこかに存在しているだけで、いいと思える。

 

そうやって心が満たされていると、私は自然体でいられる気がする。

 

ちい。

 

 

 

ただいま

自然体でいたいな。

 

よく思っていた、そして今も。

 

そう思う理由は、私は私に不自然さを感じていたから。

 

これ迄長らく、私は社会に何か価値を生み出さなければ、

生きていてはいけない気がする、という呪いにかかっていた。

 

元々は、自らに目を向けて、真っ直ぐ進んでいたら、

誰かにとって価値ある何かがは自然と生み出ている。

そう思っていた。

 

価値は、生み出すものではなく、何か出てた、みたいなイメージなのだ。

 

だから、生み出すぞ!と積極的に意気込んだことなんてなかった。

 

そんな目線で捉えたことがない。

 

そんな私を身近な人達は許さない。

 

そしていつの間にか、私は私に呪文を唱えるようになった。

 

見栄を張って等身大よりも大きく見せたり、

他人が期待している私にはまろうと努めたり、

習慣となり、それは私自身となっていった。

 

健全に努力するのではなく、楽な道に逃げたのだ。

 

虚像を作り出し、その虚像は取り返しのつかないくらい成長した。

 

ある時ふと気がついた、酷く疲れていると。

 

もう何の気力も残っていない。

 

全てを義務に感じた。

 

食べることさえも。

 

味わうってなんだっけ。

 

味覚はあったはずだけど、感じる力がなかった。

 

目も半分程しか開いていなかった。

 

基礎体力も低下し、長い間立っていられず、腰を下ろすことが増えていた。

 

心も身体もこのままどこかに消えてなくなってしまうのかぁ、と

頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、ぼんやり繰り返しながら。 

 

なんとなく、時が流れた。

 

沢山休んだ。沢山泣いた。

 

欲求に耳を傾け、毎日「今日も生きててくれてありがとう」と伝えた。

 

私はそうやって私を労った。

 

時は流れたけど、きっと今後この体質は変わることはないから、

上手く付き合っていく必要がある。

 

だからこそ更に、私が私にかけた呪いを解きたいと思った。

 

価値を生み出さないと、生きていてはいけない気がする、その呪いを。

 

そして今。だいぶ解放されたと思う。

 

悪いものは、体外に流れた気がする。

 

顔は筋肉が解れて、丸くなった。

 

表情も口調も柔らかくなった。

 

声は小さく、話すスピードもゆっくりになった。

 

好きな自分が返ってきた。

 

たくさん遠回りしたけど、それで良かった。

 

これからもたくさん遠回りすることがあるかもしれないけど、

良い結果に自分自身を導ける術を知っている。

 

信じてるぞ。

 

ちい。

空っぽな新しい自分

私は、面白くないから、面白さに執着している。

 

現代、面白さ(唯一無二感・ユニークさ)がないと、生きられない恐怖を感じる。

生きてる価値なし!と、常に誰かが私の耳元で囁くんだ。

 

それはきっと、幼い頃から、母に呪文のように唱え続けてきた影響もあるだろう。

そして未だに続いている。

 

頭の中でぐるぐる回るこの呪文から解放されたいけれど、

社会の流れに依存して生きてる身としては、抜け方が分からない。

 

世の中に影響を与えられる人間になりたい!なんて微塵も思わない。

生きていれば、自然と良くも悪くも誰かしらに影響を与えているとは思っている。

 

でも私の存在は、どこにも誰の目にも止まる程のものではない。

それが何か悲しい。

影響を与えられたんだ~って感じたい。

 

だから、一時的に自分の事を気持ちよく錯覚させる為に、護身の為に、

見栄を張る。嘘をつく。

 

嘘をつき、妄想し、仮想空間を現実だと錯覚し続ける。

永遠にこれを繰り返す。

 

軸がない空っぽの状態は、そりゃ誰の目に止まるわけない。

自分の考えや言葉ではない上辺を走っていることなど、

嘘っぽい。怪しい。

 

呪文を自分の頭で唱えすぎて、自分が考えている事が、分からなくなってしまった。

そして、自分のことが全く信じられなくなってしまった。

 

この問題を客観的に見つめ、言語化することから、今まで逃げていた。

今までの生き方や自分の存在を否定するような気がして、恐くて。

 

でも、この今は、逃げずに、向き合っている。

以前より、前向きだ。

 

空虚感で途方に暮れると思っていたが、何故だか清々しい。

問題に気がつけたということは、ほとんど解決したようなものだ。

あとは、ちゃんと生きていくだけだ。

 

ちい。

受けた害からの解放

被害の記憶を忘れる事ができない。 

 

私は両親から害を受けたと、今も思い続けている。

 

父からは、幼い頃に受けた性被害、身体的被害。

母からは、今も尚受け続けている、精神的被害。

このふたつを、抱えながら、拗らせている。

 

まずは、身体的被害について。

 

4歳~6歳くらいまでだろうか。

当時、リビングの隣りの畳の部屋に、私と母は布団を並べて、2人で寝ていた。

母は、朝食やお弁当の準備、諸々家事がある為、朝は早くから行動していた記憶がある。

そして、毎朝父が、目覚めの悪い私の事を起こしてくれていた。

歯磨きをして、めざましテレビをボーッと観ながら、3人で朝食を食べる。

ごく普通の朝の日常だ。

 

ある冬の日。

寒い日は、なかなか潜っている布団の中から出られない。

いつも通り、父は私を起こしにきて、寒いからか布団の中に入ってきた。

その時、上半身から下半身へ手が降りていき、全体を舐め回すように触られた。

毎日のように、日課となっていった。

 

まだ性の知識が全く無い年頃で、当時は事の重大さがよく分からなかった。

でも幼いながら、誰かに言えないモヤモヤした感じは、残っていた。

 

中学生になり、性教育の授業を受けている時、過去が一気にフラッシュバックした。

鮮明に、色濃く浮かびあがり、震えた。

どうする事もできず、どうする事もなく、時は過ぎた。

そして、今である。

 

これまで身体的被害の他に、私は父から害を受けたと思っている出来事が沢山ある。

それら含め、何もかもどこにも発散できておらず、消化不良は続いている。

もう解放されたい。

父からも、私からも。

 

ここに綴ることで、気持ちが整理でき、受けた害をどこかへ渡せた気がする。

良かった。

 

精神的被害については、疲れたからまた今度。

 

ちい。

大切なことがみえた瞬間

今日のきづき。

それは、気遣いの感覚が似ている人との居心地が良いということ。

さっき少しイラッとした事があった。

このイライラの感情には、私に何かを伝えようとしてくれてる大きな意味があって、そこに向き合うために、今の感情を大切に保管したく、掘り下げて考えてみた。

私は通勤の際、自転車を使用している。

歩道を走っていると、ベルを鳴らすことが何度かある。

みんな、「通ります、避けて下さい」の意味を込めて、ベルを鳴らすと思う。

けどその他、歩行者が元々道の端を歩いてくれて、危なくない状況下でも、急に真横を自転車が通過したら驚くと思うので、「失礼します、通ります」の意味を込めて、私はベルを鳴らすようにしている。

それは、私が歩行者側の立場であった時に、驚いた経験があるから。

鳴らしてくれると有り難いなと思って、私も鳴らすようになった。

これは私の中では、相手に対する気遣いだ。

この前、気遣いの意味を込めていつも通り鳴らしたら、歩いていたおじさんに大きな舌打ちされた。

おじさんは、道のど真ん中を歩いていて、道幅は広めではあったけれど、もし私が通過の際ふらついたら、ぶつかるくらいの距離感だった。

だから、鳴らした。

相手には、そこまで私が考えていた事は伝わるわけない、それは分かってる。

けど私の感覚からすれば、少し考えれば相手からの気遣いだと気がつくことで、嬉しい気持ちになる瞬間なのだ。

でもおじさんはその瞬間、きっと私と真逆の感情を抱いたんだ思う。

お互いに言葉は交していないけれど、舌打ちに変換されてしまったってことは、そういうことだろう。

気遣いって、相手のことを想う行為で、無意識のうちに頭の中で【イイコト】と変換していた。

けど、有難いと想う感情がでるところ、リスク管理の度合い、など人それぞれのはず。

見知らぬもの同士、同じ感覚を持ってるはずがないのに、同じ感覚を無意識のうちに求めていた。

だから私はイラッとしてしまった。

本当に相手は相手、自分は自分、だと思って、何も期待しなければ、きっとスルーできた状況だった。

長年の経験から私自身に宿ってしまった、無意識のうちに相手に自分を求める行為、これは少しずつ手放していきたい。

ちゃんと意識すれば、少しずつ手放していけそうだから。

でも、こういう気遣いの感覚が似てる者同士であれば、毎日ストレスフリーに過ごせる気がするとも感じた。

ここは私の中ではとても大切なポイントで、この感覚の相性が良いと、他の感覚も似ているような気がしてしまう。

私はどんな人といると、居心地がいいなと感じ、幸せな気持ちになれるか、気がつけた機会になった。

機会をくれたおじさんに感謝。

ありがとうございました。

ちい。